皆さんは七夕の歌「たなばたさま」を覚えていますか?
歌詞に出てくる「のきば」や「金銀砂子」って
ちょっと子供には難しい言葉が出てくるんですけど、
その意味をご存知ですか?更に一体どんな人が作ったのか?
そこで七夕の歌を子供にも分かりやすく大人にも面白く
解説したいと思います。
「たなばたさま」作った人ってどんな人?
「たなばたさま」を作った人は知っていますか?
このうたは、昭和16年に3人の人たちで作られました。
作詞:権藤花代・林柳波
作曲:下総皖一
以下簡単ではありますがこの方々をご紹介致します。
権藤花代(ごんどう はなよ)プロフィール
本名:権藤はなよ
生年月日:1899年4月13日
死没:1961年11月3日
出身:山梨県北巨摩郡穴山村
出身校:山梨師範学校(現・山梨大学)
職業:童話作家、童謡詩人
学校を卒業後一度は就職しましたが、文学への熱い思いが捨てきれず出版社に勤めながら、野口雨情(のぐちうじょう)と千葉省三(ちばしょうぞう)に師事し、『金の星』『童話』などに童謡詩、童話を発表しています。
師である野口雨情が「童謡は唄うもの」と語っている事に影響されてか、権藤花代の作品の多くは唄うことを前提に書かれています。その代表作品が「たなばたさま」なんですね。
林柳波(はやし りゅうは)プロフィール
生年月日:1892年3月18日
死没:1974年3月27日
出身:群馬県沼田市
出身校:明治薬学校(現・明治薬科大学)
林柳波は子供の頃から雑誌へ童謡詩の投稿を行うという文学少年。大学で薬学を学びそして薬学校の講師をします。そして1919年に日向きむ子(ひなたきむこ)と結婚。その縁で権藤花代の師である野口雨情の影響で作詞を行うようになります。
下総皖一(しもふさかんいち)プロフィール
生年月日:1898年3月31日
死没:1962年7月8日
出身:埼玉県北埼玉郡原道村砂原(現・加須市)
出身校:東京音楽学校(現東京藝術大学)
1920年大学を首席で卒業。その後、ドイツのベルリン芸術大学でパウル・ヒンデミットにも師事。更に同大学でブラームス=ヒンデミット系のドイツ音楽語法の先駆者となった人です。
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たなばたさま
では、「たなばたさま」の歌詞になります。
1.ささの葉 サラサラ
のきばに ゆれる
お星さま キラキラ
金銀砂子(きんぎんすなご)
2.五色(ごしき)の たんざく
わたしが 書いた
お星さま キラキラ
空から 見てる
懐かしいですね♪♫
ですが、大体は理解できるのですが、
「のきば」や「金銀砂子」ってなんでしょう?
のきば
「のきば」は漢字で書くと「軒端」になります。
軒とは、屋根の下、外側にはみ出した部分。
つまり軒端は軒の端っこという意味になります。
金銀砂子(きんぎんすなご)
「金銀砂子(きんぎんすなご)」ですが、
「金銀」は夜空の星が輝く様を意味しています。
「砂子」は「砂」を意味します。
つまり天の川を天の川を本物の〝川”に見立て、
金や銀に見える星は、川の周りの砂を表しているのです。
3人の芸術家が「たなばたさま」に込めた願い
「たなばたさま」が作られたのは昭和16年。当時は戦争真っ只中、激動の時代。
日本軍が、ハワイ真珠湾を奇襲空襲したり、マレ一半島上陸があった年です。
こんな危険で悲しい時代に、「たなばたさま」は作られたんですね。
3人の芸術家は、きっと子供たちには平和で健やかな時代で
強くたくましく生きて欲しいと願いこの歌を作ったのかな?
当然、短冊の願いは平和っだったのでしょう。
なんて考えてしまいました。
そう思うと今の時代は裕福で幸せですね。きっと3人の願いが叶ったのでしょうね。
コメント
著作権協会の記載は、法的に定められたものではありません。特に唱歌については、原本に作者名の記載がないため正しい記載もあれば誤記載もあります。例えば「ほたるこい」は石森延男作詞ですが、林柳波作詞となっています。これは、作詞者に二通りの記載があったものを井上武士が正しい記載の方を抹消したからです。「たなばたさま」も作詞者の記載に二通りあったと推測できます。ですから、どちらかが本当の作者ということであって二人による共作という話は、著作権協会の記載から考えだされた作り話です。作詞者が特定できない伝承の「わらべうた」についても早い者勝ちで作詞者が書き込まれているものもあります。音楽関係の研究者も著作権協会の誤りについて検証してほしいものです。歴史の教科書などは、学者の研究により過去の誤りは訂正されています。